本部から【夏休みの過ごし方】ということで、お知らせを周知したところです。夏休みという長期間休みの中で、おしゃれができる時期でもありますが、武道の難しく伝わりにくいところでもありますので、個人的に補足・追記をしておきたいと思います。
いろんな習い事がありますが、その中で髪型や髪色、装飾品について注意されるなんてことはあまりないため、戸惑う保護者さまも多いのではないでしょうか。このエントリーが、「武道」というものについて少しでも理解を深める機会になれば幸いです。
さまざまな研究がなされ、諸説あることをまえおきとして。
■空手の成り立ち
もともと、私たちの修行している空手道は、「唐手」でした。中国(唐)に学んだ手(ティー)ということで「唐手(トーティー)」と呼ばれていたものが、「唐手(からて)」に読み替えられた経緯があります。
沖縄発祥のこの拳法を本土に普及するのに大きな役割を果たしたのが、空手四大流派の一つ、松濤館の祖、船越義珍先生です。このときに、禅の「空」の概念、徒手空拳で戦う意味の「空」に文字を改め、「空手」になったとされています。
■空手と空手道
「空手」と言いながら、門馬道場の道場旗には「空手道」と刻まれています。この違いは、単なる文字の違いなのでしょうか?
実は、この「道」という文字に大きな意味が込められています。「道」という言葉が武道において持つ意味は、単なる技術の習得だけでなく、人格形成や精神修養、そして人生における生き方そのものを指し示す言葉です。
私たちで言えば、突き、蹴り、その応酬を通して痛みを知ることで、他者に優しくなれるからこそ、人から信頼されるようになる。単に空手を教えることではなく、空手を通して自己を磨き、人生を豊かにするための哲学や精神性を包含した概念が「道」という文字です。
■しかいぶ
「武」という文字の中には、「戈(ほこ)」を「止める」という意味があり、武術は単に戦うための技術ではなく、争いを防ぎ、平和をもたらすための手段であるという考え方が根底にあります。この思想を体現するためには技術の鍛錬だけでは足らず、精神的な成長や人格形成が必要不可欠で、その修行過程こそが「道」であるという考え方が生まれました。
学術的には武という文字は象形文字で、勇ましく歩く姿だというのが有力な見解なのですが、止(し)戈(か)為(い)武(ぶ)というこの解釈は、春秋左氏伝を出典としています。
この精神的な成長や人格形成、いわゆる内面を磨く修行という面と、絶対的な宗教教育のない日本という国に道徳観をもたらした武士道の精神とが融合して、いまなお武道に受け継がれていると言えます。
■おしゃれはどうなのか
空手を教える、ということを考えると、私たちは単に突き・蹴り、その応酬の技術を教えるだけでは不十分です。よく2世議員の醜聞などのニュースを目にすると「虎の威を借りるならその使い方も学んでおいてほしい」と思うものですが、空手も同じ。力を持つならば、その使い方も教えなければなりません。簡単に暴力をふるう人をつくる道場なんて、どこにも需要はありません。
力を与えつつも、それを使わない心の強さを養う。
だから、私は空手よりも空手道の門馬道場が大好きですし、そういう価値があると思っています。
でも、だからといっておしゃれをするな、というのも酷な話ですよね。誰だっておしゃれはしたいし、道場もそれを否定していません。
ただ、そのおしゃれは、本当におしゃれなのか、は立ち止まって考える必要があるでしょう。私自身はおしゃれのセンスは撲滅されていてすでに久しいのですが、おしゃれを楽しむ人は、その場その場での「場のルール」を理解した中でこそ、じゃないでしょうか。
分かりやすいのがドレスコード。スーツやタキシードなど正装が基準とされているパーティーの場に、おしゃれなダメージジーンズといかした古着Tシャツで行くことはどうでしょう?
おしゃれがしたいならば「ダメージジーンズでパーティに行く行為」に自覚的でなければなりません。ドレスコードを無理に突破していくのならば、「タキシードやスーツで着飾っている人たちを納得させる何か」が無ければ、単なる我を通したいだけの不心得者になってしまいます。そこでドレスコードに文句を言ったり、合理的な理由を求める人もいないかと思います。
ということで、それでも派手な色に染めたりカラコンいれて稽古したいという人は、「保守的な武道界に一石を投じてやる!」、「私は古い既成概念を打破するたえの前衛的存在である」といったゆるぎない信念に基づいて、それなりの批判や波風に対する信念があるのならばいいのではないでしょうか。
■結局のところ
私としては、「人による」という曖昧な答えしか出せません。例えば「座頭市」という映画をご存じでしょうか?ビートたけしさんが主演されている、盲目というハンデを背負った侠客の活躍を描いた時代劇です。
時代考証は定かではありませんが、少なくとも染髪の一般的でない時代で「金髪の侍」という異色の役柄を見事に演じられています。
守破離という修行過程の中で、守の段階を経て、破や離の過程の中で金髪なりなんなりを確立できたら素晴らしいとも思います。
でもそれはあくまで守、型を守る段階を経ての、型を破る、離れるの段階での話です。ということでまだまだ破の段階に遠い私が金髪にできるのは、まだまだ先のことですね(^_^;)