BeRealやYoutube、Tiktokが流行っている時代にブログなんて古臭いし、今どき活字なんてだれも読まない人が多い。
そんな風潮は否めませんが、それでも昔の偉人やそれこそキリストや仏陀の言葉も含めて、悠久のときを経てもなお、今に伝えている強い媒体が活字です。
分かりやすく言えば、MOやフロッピーなんて死後になりつつありますし、MDなんて再生する機械もほとんどの人が持っていません。時代の流れに左右されることなく、自分の考えや信念を最も確実に伝えられるのは、いまなお活字に他なりません。
なので少しでも、たとえ拙いながらも伝えるために忙しさを言い訳にせず、ブログ更新の頻度もあげていきたいと思います!
さて、先日11月9日(日)に秋季昇級審査会が開催されました。その後の門馬師範と指導員の先生たちとの反省会にて。
これからの門馬道場の黒帯についての話がありました。といっても門馬師範からこうだという形であったわけでなく、どういった形が考えられるだろうか?と。
道場の一指導員としてどう考えるべきなのか。未だ私の中では信念としての結論の部分と、時代に合わせた揺らぎとの狭間で結論は出せずにいますが、考え続けることが大事だと思います。そうすることで未熟な考えは深さを増し、いろんな意見で視点も多角的になっていき、少しでも最適解に近づけるのではないかと思います。
黒帯という位置付け
一般的に黒帯というと「免許皆伝」的なイメージがあると思いますが、実はそんなことは全くありません。初段から黒帯となり、弐段、参段と進んでいくわけですが、なぜか「一段」とは言わずに「初段」と言います。
武道の門を開き修行の道へ進むのが初段。ということで、実は本当の武道の修行のはじまりを意味する段位なのです。よく空手では、色帯の段階では準備運動、黒帯になってからが本当の修行のはじまりだよ、ということを教えます。
なので段位を顕す金色の線の本数は、強さのバロメーターなどではないことがわかります。強さと技術力を顕すのならば、キックボクシングで実績のある人が入門したならば、次回行われる審査で黒帯になる道理になりますが、そうではありませんよね。
じゃあどんな位置付けなんだよという話になるわけですが、私は「空手を次の世代に託す役割を担う覚悟をもった人」だと確信しています。
次の世代へのバトン
「空手によって何の恩恵を受けたのか。なぜそこまでするのか」
そんな声は、実は私自身も親から言われ続けてきた言葉でもあります。
どれだけの恩恵を受けてきたか。挙げればきりがありませんが、逆に空手を辞めていた人生を考えるとどうでしょうか。礼儀なんて気にしなかったかもしれない、それによって支えてくれる人なんてできなかったかもしれない、夢中になれるものがあったか、色んな場面で自分の心を強く持つことができたか、大切な人をいつでも守れる力があったか。そして、仕事以外でいろんな人が自分の周りにいてくれたか…。
何の恩恵があったのか、ということについては主観と価値観で賛否両論あるかと思いますが、門下生または保護者のみなさまは何かしらの期待や、希望をもって入門させていただいたのだと思います。
とはいえ。なかなか一筋縄で得られるものでもありません。週に1回の稽古だけで人格が完成されるのならば、人生を賭して仏門に入り修行している人などは、みんなこちらにくるでしょう。完成はないと言われる武道の道。難しいですね。
ただ思うのです。自分に大きな恩恵を与えてくれた武道、極真空手。ありがとう!で終わるならば、武道としての、極真空手としての流れは途絶えてしまうと。
先人たちが、自分が満足できたからそれでいい。あとは知ったことじゃない。で完結していれば、門馬師範はたんなる社長であったかもしれなし、私なんかは何もない人生だったでしょう。先人たちが磨き、後世に継承してくれたからこそ、私たちは日本の伝統文化である空手を学び、その中の極真空手としてさまざまな恩恵を受けることができました。その恩恵は、続けることでもっと大きなものになっていくでしょう。
で、私たちの役割です。大きな恩恵を受けながら、今度はそれをより良くなるために磨ききそれを、後世にバトンタッチしなければなりません。自分さえ都合よくメリットがあれば他は知らない。というのであれば、信頼も人望も全く無い人間で終わってしまうことは想像に難くありません。
奉仕のこと
先日の審査会で目にした保護者のみなさまも多いかと思いますが、審査会には審査する師範、道場職員以外に指導員、茶帯の門下生たちが会場にいました。
指導員は教えている門下生が挑戦するので見守る意味もあるのですが、小学生含む茶帯の先輩たちは自分たちが審査をするわけでも、自分が審査を受けるわけでもありません。にもかかわらず来てくれています。
もちろん指導員からも、茶帯になったら審査会もお手伝いしてねと声はかけるのですが、その意味を理解してくれた門下生は積極的に自ら参加してくれています。
幼い門下生を並べたり、トイレに連れて行ったり、泣く子を励ます先輩もいれば、わからない子に寄り添う先輩もいる。そして連続組手では試練として、相手になる。
それは茶帯になるまでに、自分が先輩たちからしてもらったことなのです。
奉仕というと、都合よく扱うためのお題目として捉えられがちです。それは、組織の長たる門馬師範に奉仕しろ、と言えばその通り間違いありません。でもそういう意図では全くありません。
門馬師範のいう奉仕は、「俺に返しなさい」ではなく、「自分を導いてくれた極真空手道に、その道場を支えてくれた地域に返しなさい」という奉仕です。いつかのブログでも書いたのですが、「恩返し」ではなく「恩回し」。自分らが受けてきた恩恵を師に返すではなく(もちろん礼儀は尽くしますが)、同じことを後輩に、次の世代に同じことをしてあげて返していく。
そして次の世代に託す役割。私は私自身が、遠い未来の人まで全てを空手で救えると思えるほど尊大にもなれないし、それを見守ることもできません。それは別の誰かが見届ければいい。私たちにできるのは、いまの空手をより良いものにしながら次の世代にバトンタッチすること。そのために自身が空手で修行し続けなければなりません。その覚悟の証が黒帯ということなのだと。
今回の昇級審査会では、一人ひとりがひとつの課題にぶつかり、修行の道を一歩進めます。長い道のりの、最終的に目指してほしいところを自分なりの言葉で残すことは無駄にはならないと思い、筆を置きます。
押忍!
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