武道において、茶髪がいいか悪いかなんていうのはいまさら話に載せるまでもなくどうでもいい世間話なのだけど、それでも書いておかないといけないのは、その常識が通用しなくなりつつあるからです。
おそらく、今の私の考えは細部はともかくとしても方向性として変わることはないと思うので、ここでその理由を明確にしておきたいと思います。それが髪を染めることか、タトゥーを入れることか、耳に穴を開けることかなんていうのはどうでもよく、その本質について。
端的に言うと、「そもそも道場の教えとしてダメだから」という一言で終わりです。
一、吾々は、質実剛健を以て、克己の精神を涵養すること
質実剛健とは、中身が充実して飾り気なく、心身ともに強く逞しいさま。質は質朴(飾り気がなく純真・素直なこと)から来ています。
道場の教えを守れないなら他でやれば?というだけなのですが、それで話が終わってしまっては理解は得られません。なぜこのような教えが道場訓にあるのかを考えてみることにしましょう。
まず前提として、門下生であるのだから、「月謝を払えば教えてもらえる」という認識は、武道の世界では大きな誤りだということ。
正確には、「月謝を払って教えを請いに行く」。だから、指導者に認めてもらえなければ、教えてもらえないのが当然の世界。みんなが道場を選ぶように、教える方も後世に伝える人を選ぶのです。
では、その指導者に認められるという点について、茶髪などのオシャレがどう扱われるのか。
そもそも武道の本質は、「人を殺すための技術=自分が生き延びるための技術」という武術の領域です。何も考えずに使えば、ただの暴力。ゆえに、教える人、師はそれを扱う人の心構えも一緒に伝えなければなりません。技術だけを伝えるのでは片手落ちした不完全なものなのです。
武術を正しく扱えるだけの心の強さと人格を追求するのが「武道」。だから剣道であれ、空手であれ、それを扱う人間は、自分の内面をある程度コントロールする必要があります。
自分の内面をしっかり従わせ、自己の感情の手綱を握ることができたとき。「臆病は慎重」に変わり、「蛮勇は勇気」に変わる。
そしてその境地を目指すためには、内面・心を鍛えなければならないのですが、その過程は「己を知る」ということから始まります。
己を知れば、修行している身でいま髪を染めなければならないのか、いま耳に穴を開けなきゃないけないのか、なんて自分で判断できます。
逆を言えば、それすら判断できないうちは、まだ内面を鍛える過程には立てていない。そのような未熟な段階の人に武術の本質を教えるわけにもいかない、というわけです。
昔から極真と言えばいろんな人がいて。刺青が入っているため、道着の下にシャツを着用している人も多かった。でもそのような人が、武道を志すのは全く悪いことではありません。ただ、入れ墨は髪の毛やピアスと違って、一度入れたら元には戻りません。大事なのは刺青の是非、なんかよりも、いま、その人の心がどうあるのか。
茶髪にしろ、ピアスにしろ、性別や年齢によってさまざまです。白髪染めの是非を問うことに意味はありません。社会人でも、業界によっては男でピアスをしてる人だってたくさんいるでしょう。
ようは武道を修行する身として、自分が社会からどういう目で見られるか。自分の年齢や性別や、武道を修行していることを含めて、場に沿った適切な所作ができるかどうかが大事だということです。
中には信念やアイデンティティからタトゥーを入れたりする人もいるわけですが、本人が一人で勝手に立てた誓いや信念ほど、他人から見て無価値なものはありません。
確固たる自分を持つことができたとき。その自分の中で、髪を染めたり、絵を肌に描いたりがそんなに重要な位置を占めるのか。その判断はおのずとできるものでしょう。誰でも気軽にできるおしゃれが、武道の修行を差し置いても大事で「自分のアイデンティティに深く関わる」というのならば、それをよしとしてくれる道場を探すことをお勧めします。
門馬道場の使命は、「極真空手を通した武道教育で社会的有為な人材を育成すること」。同調圧力とか固定観念とか、そんなものも内包した社会で通用する人格を育むことにあります。社会で自分がどう見られるか、それを適切に判断するのも大事な力の一つなのです。
なお、大会要項などには記載されていますが、過度の装飾(ピアス・ネイル・ペディキュアなど)や染髪、その他武道にふさわしくない髪型などの場合は、大会出場が認められません。また、佐倉や霞町においても、稽古への参加、遠征大会への出場や昇級審査への推薦などを認めませんので、予めご了承ください。
まぁ私は。個性っていうのは染めたり付けたり彫ったりではなく、育むもの。信念や誓いなんてものは、ファッションで主張するものなんかじゃなく、生き様や背中で示すもんだって思ってるんですけどね。
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