2025年1月28日火曜日

超グレー!?審査会推薦の基準について

  今はInstagramやTikTok、YoutubeなどのSNSがたくさん使われていて、それに合わせて動画を作ってきました。私自身、Instagramでは帰省のこどもの様子なんかを動画でまとめていて、「みてごらん、これが亡くなったおじいちゃんのアカウントだよ」みたいな感じで、ご先祖さまの生きた形跡が生々しく残る時代がきたりするのかなと、戦々恐々としています。

 行事の様子や報告、PRなんかは映像の媒体が一番適していて、現にそれがSNS流行の大半を占めています。

 その一方で、映像や写真などのビジュアルで伝えられないものも確かにあります。その一つが、ものの考え方や、価値観、理念、信念などです。


 本と読書の価値については筆舌に尽くしがたいところがありますが、私たちが教科書なんかで見る偉人と言われる人たちが、何に悩み、何を考えていたか?というのは、ありがたいことに活字を通して今なお、その足跡をたどることができます。

 私の場合、偉人でもなんでもないのですが、それでも道場に通ってくださる門下生とその保護者さまのために、考え方や方針などを示し、共有させていただく場として、このブログを続けているところです。


閑話休題。


 先日の土曜日から、福島佐倉道場、霞町道場では冬季審査会への推薦をはじめました。門馬道場の他の道場も、審査に向けて推薦がはじまっているところです。

「なぜあの子が受けられるのに、うちの子は受けられないのですか?」

「昇級審査の明確な基準ってあるんですか?」

 という声は直接的や間接的に毎回、触れることになります。いい見方をすれば、門下生の新陳代謝が活発であるということ、裏を返せば私たち指導員がそのあり方、考え方を伝えきれていないという課題でもありますよね。

 こういったことは、保護者さまとの懇親会や道場の見学室で聞かれてお伝えすることも多いのでその機会を大事にしていきたいのですが、中には都合で参加が難しい方もいらっしゃいます。

 せっかくブログという場があるので、門馬道場指導員としての私の考えをここに残しておくことで、一人でも多くの保護者さまのご理解、ご協力を頂ければ幸いです。


昇級審査って?

 そもそも昇級審査って何でしょう?そんなことわかってるよ、と思われるかもしれませんが、少しお付き合いください。

 分かりやすく言えば、帯が変われるかどうかの試験です。じゃあ帯の何が変わるのかと言われれば色でして、それが変わると何なのか?という疑問につながっていきます。



 帯の色は、上のように変わっていきます。黒帯というと免許皆伝なイメージですが実際は異なり、黒帯からが武道修行の始まりになります。

 なので、級のうちは数が9級→8級→7級…と少なくなっていくのに対し、段になると初段→弐段→参段…という風に逆に増えていく形になっていますよ。

 つまり帯の色は、強さのランク分けや、できる技術のバロメータなどではなく、空手修行のどの段階にいるか、を示すものになります。

 そのどの段階にいるか、を審査してもらうのが昇級審査というわけです。昇段審査の場合は、武道修行の門を開くに相応しいか、というまたちょっと違った視点になりますので、このエントリーでは昇級審査に絞って書きます。その点あらかじめご了承ください。



相対評価と絶対評価

 ものごとを評価する形には、乱暴に分けると大きく2つになります。所属する組織や集団内でどのような順位にいるか?という相対評価。例えば難関とされる国家資格などがそうですね。

 つぎに、集団内での順位に関わらず個人の能力に応じてそれぞれ評価する絶対評価。車免許の筆記試験などがその例になります。周りの状況に関わらず、基準点さえ超えれば合格!といった形ですよね。

 では空手の昇級審査はどうなんですか?と聞かれると、両方ですね。と答えます。相対評価の部分を否定せず、かといって純粋な絶対評価とも言えません。私が「乱暴に分けると」と前置きしたのは、このような評価の形が世の中には数多くあるからです。


 例えば相対評価がなじまないのは、お分かりいただけるかと思います。例えば思い切り極端に「8級受審した人の中で上位10名が審査合格!」などとした場合、一般部も受けるわけですから少年部はほぼ昇級できるチャンスはなくなってしまいますよね。

 小学校低学年を相手に組手無双する大人が8級に相応しいのかという疑問はさておき、相対評価は上位のみを対象とするハードルの高い評価方法。道場の昇級審査は、そうはなっていません。

 もしそうであったならば、一定の年齢を境に、永久に昇級・昇段できない道理になります。

 では絶対評価でしょうか?

 一部はそれが採用されています。〇級では、腕立て伏せが〇回、帯飛び〇回といった基準がありますね。また前級を取得してから最低〇回以上の稽古といった基準もありますし、黄色帯以上は合宿参加が必須とされている点もそうです。この部分は、純粋な絶対評価と言えます。



審査への推薦は絶対評価?

 ここがまさに、私が純粋な絶対評価とは言えないとした理由になります。

 先にも見た通り、帯の色が示すのは修行の位置段階です。それは単に腕立て伏せや帯飛び、合宿参加状況の数値だけで示せるものではありません。

 保護者のみなさまが例えば、「腕立て伏せを〇回できるようにするために道場に入門させたんだ!」という稀有なケースであればその指標だけで足りるのでしょうが、そのほとんどは礼節を身に付けさせたい、あきらめない強い心を持ってほしい、信頼される人物になってもらいたい…といった動機がほとんではないでしょうか?


 武道の目的は、その武道を通して人格の完成を目指すこと。武道としての技量も必要で、これは腕立て伏せや帯飛び、逆立ち歩行はじめ、基本や移動、型、組手などでみることができます。では本来の目的である、人格の完成の方は?


 それは普段の稽古への取り組み方であったり、挨拶をはじめとして礼法であったり、後輩への接し方であったり…。多岐に渡って判断するのですが、ここに挙げたものをはじめとするほとんどは、審査会場ではみることができません。そこで、指導員の推薦という形が採られています。


 なので広い見方をすれば、指導員の推薦と師範による空手審査が一体となって、昇級審査が行われているのだと考えています。




では指導員の推薦基準は?

 そこでよく疑問の声を頂くのが、指導員の推薦への判断基準です。何を基準に推薦しているのかということなのですが、修行歴、稽古頻度、行事・大会への参加状況なども踏まえて判断しますが、ここに大きな要素が含まれます。

 それが先ほどの中で示した「XXXXX」という部分です。この点が広範に渡ると共に、指導員の先生の考え方が出てくる要素になります。

 平たく言えば…と書こうとしましたが、平たくと一口にまとめられない難しさがあります。門下生一人ひとりをみたときの、判断です。



 ここに出したのはほんの1例です。門下生の数だけ判断ケースがあると思っていただければと思います。



帯が人を育てるという部分

 いろんな視点からみて推薦するかどうかを判断しているわけですが、客観的な基準を示すことが難しい部分の一つが、「帯が人を育てる」という要素です。
 上級の緑帯を取得したら「緑帯の先輩らしくしなくちゃ」という、自覚の部分が大きく芽生えてきます。それは緑帯に限らず、それぞれの色に応じて、多かれ少なかれ出てくる部分です。


自我自賛ですが、後輩を教えるのがうまい先輩たちがたくさんいる道場です。





 なので、帯が人を引っ張ってくれることを期待して推薦することも、多くあります。でもそれは外からみれば「なんで〇〇ができないのに(していないのに)受けれるの?」と見えてしまうものですよね。

 もちろん厳格に決まっている合宿の規定や、修行年数などを覆して受けさせたりは、原則ありません。けれど、いろいろ規定があるなか。たとえ足らない部分があったとしても。

「いまここでできないから受けさせないより、いま受けて昇級しておいた方が、この子の稽古に対する取り組み方が続けば、後々の修行で絶対プラスになる」

と指導員が判断すれば、推薦します。でもそれは、普段の稽古の様子や取り組み方、悩みなども含めてみている指導員だからこそ判断ができるわけです。だから、師範もそこは指導員に一任してくれていて、推薦された門下生を審査しています。(注:茶帯・黒帯はまた扱いが異なります)。

そこの意味では、ある種相対的な評価が働いていることも否めません。

 例えば、逆立ち歩行の課題がなかなかクリアできない門下生がいるとして。普段から稽古は一生懸命で居残りでもなんとかクリアできるように頑張っている門下生ならば、先ほどのように判断するでしょうし。逆に、いまいち集中できていなく、稽古も休みがちなのだとすれば、見送って次回に、と判断するでしょう。


 そのときの頑張っている、頑張っていない、の判断では、他の子の頑張り度を参考にすることもあるわけで、それは相対的な評価ですよね。グレーにしているわけではなく、あまりに複雑な要素が絡み過ぎて、グレーにならざるを得ない。私はグレーというよりかは、指導員の裁量が大きく働ける部分だと思っています。だからこそ、そこをできるだけ正確に、そして時代や道場の状況に応じて判断できる経験を踏まえた指導員が、推薦する形なのです。


結び

 もしも、こういった指導員の裁量が効かない。評価シートみたいなもので、誰が見ても客観的に納得できるような、推薦判断基準のようなものがあるとすれば。


 それはほとんどの人が昇級できるようなものではなく、大人の中では若い人だけ、子供の中では高学年の子だけが昇級できる。そして指導員もいらず、空手の技量だけで「道」の概念は無い。純粋に、体力やウェイトによる格闘技のグレード・ランク分けシステムが出来上がるだけです。級が示すものは強さ、だけ。

 すると、そこに人格は関係ないので、例えば自分は先輩には向かっていかないけど、後輩にはぼっこぼこな人も一定数いるようになります。当然人は続かず、修羅みたいな人だけが道場に残るようになり、昇級はその上位だけ、となるのである意味での難易度は上がり… 九龍城みたくなっていくんですかね?

 それでは、あまりにも虚しすぎます。

 師範はじめ私たち指導員がそれこそ10年、20年と取り組んできた武道、空手道はそんな浅はかなものではありません。


 そういったわけで、「〇〇くんは受けられるのに…」という見方は、そもそも相対評価で、道場での判断とは大きく異なっています。だから、それで納得がいかないのは当たりまえだと思うのです。そもそもそういう判断をしていないのですから。

 それは審査会についての伝え方が不十分な、指導員側の課題であると思っています。


 先ほど伝えた推薦に対する判断こそ、指導員の価値観、考え方、信念が色濃く反映されるものです。それは言ってしまえば、道場のカラー、指導員の先生の方針ということになるでしょうか。

 これを書いていて、何も「私の判断が正確で正しい」と思っているわけではありません。このブログで伝えたいのは、門馬道場の指導員の先生は、それぞれで信念を持って判断しているということ。それはそれぞれの色を持ちながらも、門馬師範の「この帯はこうあるべきだ」という方針の上に成り立っているものです。
 
 他者と比べて見れるものなんて、一つの断面の切り口でしかありません。それではあまりにもったいない。

 
 昇段状の中には次の文言があります。
 「東方古傳日本空手道修行ニ心魂ヲ盡シ理業共ニ顕セリ」

 理業は、理は理合い(そうなる理由)、業は技のことで、両方を修練したということが書いてあります。でも心魂をつくし、ってどこで判断するのかな?って思いませんか?

 昇段状に書いてあるのだから当然、昇段のための条件とも読むことができるわけですが、その解釈はさまざまありますよね。

 先生によっては「部活やバイトをやっているうちは、心魂つくしてるとは言わない」となりそうですし、「部活をやりながら空手も一生懸命にやり続けたのであれば、それはりっぱな修行のあるべき姿だ」という形もあるでしょう。これが解釈の幅です。

 誰もが客観的にかつ納得できる形となるならば、解釈の余地はありません。だれが読んでも明確に意味がくみ取れる基準。

極端なはなし「黒帯になるものは部活やバイトなど一切せずに空手に打ち込んでいること」と、それぞれの頑張り方や事情を一切切り捨てた形にならざるを得ません。

 じゃあ仕事はいいのか?とか、そんな疑問も出てきます。でもそんな細かいいちいちの条件まで規定するのか?解釈の幅をなくし、誰もが明確に納得できる、というのはそういった世界です。

 法律でさえ、そんなん無理!と、わざと曖昧にしてあらゆる状況に使えるようにしてあります。

 そんな非情で機械的なシステムではなく、個々の頑張りをできる限り評価してあげたい。決してブラックボックスなのではなく、一人でも多くの門下生が黒帯に至るための不明瞭、納得できない部分なのだということが、少しでも伝われば幸いです。

 目指す帯は全員黒帯!だけどそこに至る道は、それぞれある。どの道が一番いいかは、いっしょに探していこう。


 それが門馬道場の、指導員推薦という形なのです、と結びに代えて。







0 件のコメント:

コメントを投稿