2025年2月7日金曜日

黒帯ってどれだけ偉いの?

「どういう道場にしていきたいか?AorBそれともC?」

 選択肢なんて提示される前から、答えなんて決まりきっている。門馬道場に身を置くようになり、いち門下生から、道場をやりたい。その思いを門馬師範に伝えたのが、もう10年以上も前。

 そのときに伝えて誓った、自分の守るべきものなんて昔から何一つ変わっちゃいません。
 
 「あの人は熱い」

 そんな言葉を耳にすることも多い。大学のときからだったか。でもいつしか、熱さ【だけ】には魅力を感じなくなってしまいました。

 例えば選挙が近づくと。立候補者たちの熱弁が始まります。文字通り、熱く弁を立てるわけですが。でも私たちが判断すべきは、その込められた熱量だけではないはずです。

 熱量だけで評価できるというのならば、財源の根拠や将来のビジョンも何もなく「消費税を廃止します!」と、それこそ熱そのもので訴える政治家が、国家の中枢にいなければならない道理です。でもそうはなっていない。


 熱ければ熱いほど。私が信頼できると思う人は、熱さと同じだけの冷静さを持っています。冷たい熱さ、とでも形容しうるような二律背反の信念を持っていたりするんですね。


 話は戻りますが、私は何をどうしていきたいか、よりもどんな道場にしたいのかという理念を門馬師範には伝えました。それは、「黒帯が育つ道場であること」。


 以来、ことあるごとにその言葉は訓示でもブログでも使ってきました。でもそこに込められた熱量みたいなものは、自分の中に信念として持っておけばいいと思っていたけれども、そう甘いものでもなかったようです。やはり言葉にして伝えていく必要性もあるのだと思う。


 黒帯が育つ道場―というと、当然に湧き上がる疑問があることでしょう。

 黒帯ってなに?ということです。

 あらかじめ断っておきたいのは、自身が黒帯だから、それを称賛するような意図は全くないということ。むしろ、ここで私の考えを理解してもらえれば、決して黒帯がランクの最上位だとか、偉さ・尊さの象徴とかそんなものではなく。ごくごくシンプルなものであったことをご理解いただけると思います。


 一言で言えば、私は覚悟の証だと思っています。

 この世に特別な人間って実は少なくって、『意外と』それは自分じゃなかったりします。自分もその例外ではなくって、至って平凡な人間なんですよね。
 でもそんな自分を、先生と慕ってくれる人がいるというのは、私自身の魅力とかそういったものではなく、何十年と生きる目的を与えてくれた空手に他なりません。


 空手がなかったら。その想像は小学校高学年にさかのぼるのだけど、おそろしく何もない人生だっただろうと想像に難くないです。何の仕事をしていたかわからないし、そもそも福島にも来ていなかっただろうし、師範とも門下生とも、保護者さまの誰一人とも知り合うことなく消化していく人生だったはず。


 空手のおかげで、私自身はともかく、人生は平凡からほど遠いものとなりました。先日、逆立ち歩行の動画を小学生の門下生に撮ってもらったのですが、こんな40歳が日本にどれだけいるだろうと考えると、おそらくほぼほぼいないと思われます。


 でもいま私がこんな空手の恩恵を受けることができるのは。連綿と受け継いできた先達の方々がいたからです。その方たちが、後世に残してくれたからこそ、研鑽を重ね、極真空手が生まれ、いまがあります。

 私たちの師範もそうで、自身が数十年の修行を積み、その中には自ら遠方に赴いて、いろんな師に教えを乞うたエッセンスを、私たち弟子に伝えてくれています。


 となれば、私たちの役割は明確で、少しでも空手をよりよくして、それを次の世代に託すこと だと思うんです。その役割を担う覚悟の証が黒帯だと思っています。

 極端な話、大会を頑張りたいのならば緑帯・茶帯で上級の部に出場できれば、特に支障ありません。でも黒帯がいい、というのならば、なぜ黒帯でなくちゃならないのか、そして何ができるのか、を考えないといけないと思うわけです。


 次の世代に託す覚悟を持って臨んでいるのであれば、黒帯を巻いて、周囲からもそうみられますので日々修行だと思います。私自身、役割を担う覚悟はもっていても未熟なことに変わりはありませんから。

 何ができるのか、は、後の世代にこの空手のバトンを正しく渡すということ。そのために、いまこの手にある空手を正しく使い、よりよいものにしていくことが、私自身の修行なんです。


 そんなに必死にやって、その先に何があるの?なんて言葉もときどき投げられます。

 でも言ってしまえば、生きてる目的なんて誰ももってなくないですか?常に意味を見出し、目的をもって、それにまっすぐ向かってあるくことだけが人生なのだとしたら、あまりにも遊びの無い人生ですよね。


 空手がもつ社会的意義と意味、なんて言っても。それも時代の潮流に合わせて姿を変えていくでしょうし、いつの時代も正しくあるとも限りません。そんな無責任な…と思われるかもしれませんが、遠い先の未来まで責任は持てないし、これから空手に関わる人みんなを幸せにするなんて、尊大にもなれない。

 だからせめて。いま直接かかわる人たちは空手で充実した人生を送れるようにしてあげたいし、そのバトンを次に正しく渡す。

 その役割を担ってる人の証が黒帯ってだけで、偉いでも強いでも尊いでもないんです。


 だから「大会実績があるのに何で黒帯になれないんですか?」とか「何年やったら黒帯受けさせてもらえるんですか?」なんて聞かれても、答えに窮してしまいます。
 「指導員にならないと黒帯にはなれないんですか?」という言葉も頂くのですが、別の形があれば、それでもいいんだと思います。私はバトンをつなぐには、指導という段階から始まる形しかわからないですし、最近では菜穂子先生は高齢者に向けた新しい形をつくりはじめています。

 ようは空手を後に残すため、なにができて、それを成し遂げようとする覚悟があるのか。というところに帰着します。

 その意味で、黒帯が育つ道場、という理念を掲げてきました。

 じゃあそれを実現するために具体的には?というお話になるのですが、ここまで読んでくださった方も疲れていると思うので笑 その話はまた機会と稿を改めて。






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