『3という数字は美しい』
誰の、何の作品のことばだったか…。
私たちの日本人にとっても3という数字はなじみが深いですよね。
八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉の「三種の神器」。
立法、行政、司法の「三権分立」。
R(赤)、G(緑)、B(青)の「光と色の三原色」。
カメラは3脚で固定しますし、じゃんけんでは、グー・チョキ・パーの3つで勝ち負けを決めます。
アンドリュー・ワイルズが証明するまで数多の数学者を人生ごとフルボッコにしてきた「フェルマーの最終定理」も、x^n+y^n=z^nにおいてnが3以上の自然数の場合、この式を満たす自然数(x,y,z)は存在しないといものでした。
武道の心技体ということばもそうですね。
キリスト教では三位一体という考え方があり、父(神)、子(イエス)、聖霊がそれぞれ区別された位格でありながら本質的には唯一の神であるという考え方をします。転じて「3つのものが不可分に結合し一つとなること」を三位一体という言葉として広く使うようになっています。
ミッション系の大学でしたのでキリスト教学が必修でしたので、そこでこの概念を知りました。当時は「エヴァンゲリオンのMAGIシステムはこれがモチーフだったのか!」というくらいの印象でした。
私の中では美しいというよりも、安定感があるというイメージです。安定した直線でただ一点を支える。そんな構造です。
何か大きな物事を成すにも、この構造が大事になってきます。
例えば学習塾。進学塾ともなると特にですが、高額な費用をかけて授業を受けさせるわけですが、そこでの授業・演習だけで完結するわけではありません。
家庭では予習・復習し、学校ではその結果として評定・内申点を築く。特に家庭の役割は大きく、私も含め子供なんてのはできれば勉強したくないのが本音。そこで家庭で促され仕方なく本を読んだり勉強します。
ときおり自ら積極的に将来を見据えて勉強する子もいるのですが、特に幼い小学生から多感な中学生頃には稀だと思います。いや、私だけかもしれませんが…。
家で予習・復習し、学校でそれを発揮し、塾でその土台の学力を大きく伸ばす。そこでは「高い授業料を払っているのに、家で予習や復習を促すことまでさせるのか!」というクレームは、今まで聞いたことがありません。むしろ私の親は「どう言い聞かせれば勉強させられるでしょうか」と相談するくらいでした。
本来、学校や塾だけで完結するのならば三者面談など不要です。それでもとりもなおさず行われているのは、不可分一体。どのような形であれ、ご家庭での協力が必要だからです。
ところで、学校や塾というのはよほど特殊な場合を除いて、教えるものもその方向性も定まっています。学校では教育指導要領に基づき義務教育課程を修了させ、進学塾では科目の受験範囲の知識を教授する。そこは周知せずとも、内容・方向性については、教育側と家庭側の合意が暗黙の前提となっています。
しかしながら、武道教育においては事情が異なります。それぞれの道場によって理念も、方針も、そしてその方法もすべてが千差万別です。
「三位一体による武道教育」という言葉は、門馬師範が仰られていました。
武道教育は、道場の稽古だけで完結するものではない。そこには家庭(保護者さま)の協力も必要不可欠だと。そしてそれを体験する社会、あるいは学校生活も。
武道で得られるものの尊さ、大事さ、その価値を実感できるのが社会だからです。
門馬道場の理念、方針、目指すべきところ。もっと平たく言えば、私たちが道場で子どもたちに与えたいものとその考え方。それをご理解いただけないまま、ご家庭で声掛けやサポートをお願いすることも難しいものと思っています。
なぜ黒帯取得を目指してほしいのか、それは何を意味するのか、そのためにどんな考え方をして空手道に向き合わなければならないか。
注目していただきたいのは、どのスライドにも「家庭」が含まれているということ。やはり何をどうやってみても、生活の主体である家庭でのあり方が重要になってくるのです。
道場とご家庭で手を取り合って、理想とする武道教育実現に向けて頑張りたいなと思います。
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