2026年1月20日火曜日

いじめ

いじめ動画のネット拡散が止まりません。

もはや学校に報告しても揉み消されるだけだから、最近は暴露系インフルエンサーアカウントに個人情報を添えて送る方が効果的だと。学校の方はというといじめ対策よりも、撮影を阻止して拡散を防ぐ方策に奔走しているといった、なんとも情けない話です。

 SNSを徘徊していて、私の地元である熊本での動画も含めていくつか見ました。どうしようもない。

 見ている限り、暴力的ないじめというのは私の学生時代とそう変わらないように思います。ということは数十年改善に至っていないということ。

 考えてみれば当たり前で、いじめを食い止めるはずの教師間でもいじめはあるし、犯罪を取り締まるはずの警察官のなかでもいじめはある(警官自殺、熊本県警内のいじめ認定 200万円賠償命令)ので、子供だからいじめるっていうものでもなさそうですし、もはや生存の本能の中に何か組み込まれているんじゃなかろうかと思うレベルです。


 そんななか、「いじめをなくそう!」という動きは文句の付け所が「いつまでたっても実現できない」ということくらいしかなく、反対する人はいないかと思います。近い将来か、少し先、もしくは遠い将来、いじめはなくなるかもしれませんね。でもそれが実現するまでにいじめられている人は、泣き寝入りするしかないのか?

 結局のところ、子供を強くしてあげることが、現状及び解決されるまでのおそらく遠い将来においては最適解となるのではないでしょうか。


 親という字は木の上に立って、子供の姿が見えなくなるまで見守るということから来ているのだそうです。その気持ちは痛いほど分かります。でも親が学校まで付いていってガードしているわけにもいきません。

 自分が守ってあげられない間は、自分で自分の身を守るほかない。親にできるのは、その術を与えることくらいです。


 ところで気になったのは、やっぱりいじめの動画です。だいたいにおいてどの動画も、オラついた大きなお友達が、気の弱そうな子を殴ったり、蹴ったりしている動画でした。なんでしょう、この胸がうずく後味の悪さは。

 その違和感の正体は、まさしく撮影しているカメラそのものなんですよね。どういった意図で撮られているのかわからない。あとで告発する目的なのか、いじめの一環として撮影しているのか。いずれにせよ、撮影者として傍観の立場決め込んでるのも、違和感の一部でした。みているなら止めようよ、と。

 あるいはそれができない状況なのかもしれません。止めたら自分は次がターゲット、といった具合です。

 なれば、いじめを止めるにもそれなりの力がなければ止められないということになります。少林寺拳法開祖の宗道臣氏や大山総裁の言う「力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり」という言葉の意味が重くのしかかります。


 道場で強さを学ぶことができたら、次はその使い方を学んでほしいですね。誇示するために使う人ではなく、力のない人を助けられるように。それができて何の得になるんだって人もいるかもしれませんが、人が人を助けるのに利益も合理的な理由も必要ありません。それが器ってもんでしょう。


 時代は大きく変わりました。私が入門した当時は、荒れた時代。「キレる中学生」みたいなフレーズが踊り、教師が刺殺される事件までありました。喧嘩に負けたくない、といった大勢をしめた入門動機の中には、いじめに負けたくないということも理由に含まれていたように思います。

 時代が変わったとはいえ、今も厳然としていじめはあります。そんな中、私たちの道場としてはいじめられている子たちの居場所の一つになりながらも、それを跳ね返すくらいの心と体の強さを養う場所としてあり続けたいなと思う次第でした。


 めずらしくとりとめもなくつらつら書いてしまいましたが、このところの所感その覚書として。





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