今回、すっきりしたわずらわしくないレイアウトに移り改めて自分のブログをみました。我ながら、もっとブログの名前のセンスをどうにかしなければ。
言葉の力
いろんな学問や技術は進化したけれど、センスで言えば遥か昔の人たちの方がとっても優れていたに違いありません。
源氏物語などの古典や百人一首の背景などによく出てくるのですが、 昔の人はなんとたった5・7・5・7・7の31文字で異性のハートを射抜いています。これはとてもすごいことです。
今でいえば写真たった数枚に、140文字の文章を添えるだけ火だるまになり。しかるべき治安機関によって検挙されて日常社会からプリンセス天功ばりにフェードアウトしていく剛の者もいることはいます。しかし、たった31文字だけで、異性を籠絡できるようなセンスのある人はなかなかいないでしょう。思いが前面に飛び出し過ぎて、圧倒的な文量のメールを何通も送って逮捕されるニュースが流れたりしますね。
言葉っていうのは、単なる文字を表す記号でしかないのに、大きな力をもっています。
例えば、Twitterで豊臣秀吉の肖像画をアイコンにしている硬派で武将過ぎる方が呟いていたのですが、
「モテるでしょ?」と聞かれたらクスッと笑って 「どうしてそう思うの?もしかして好きになっちゃった?」 って笑いながら返すと100%落ちるらしいですが、 「彼氏いるの?」 と聞かれたときもクスッと笑って 「彼氏いないって言ったら、ちゃんと口説いてくれますか?」 って返せば落ちます
というものでした。妙齢の可愛い女の子で想像してみれば、男性側としてはコロっといってしまうかもしれません。
逆に自分が女性に対して言ったら、コロっといくどころか「ウォエ…」みたいな、もはや言葉ですらない辛辣な擬声語が返ってくるのが落ちでしょう。
また、裁判の判決文を読んだことはあるでしょうか?普通、日本語のお手紙と言えば、拝啓 〇〇の候、お慶びのこと みたいな挨拶から入るのですが、裁判所は違います。
「被告は原告に〇〇円支払え」みたいな、わびさびのない直球が頭に来たりします。やはり強い印象です。
つけるブログのタイトルによっては、あまりのセンスにファンレターとかくるかもしれません。そんなタイトルをつけたいので、誰か知恵を貸してください。
文字に込める
私が思うに、昔の人が31文字で異性を籠絡できたのは、日本語の力ではないかと思います。いくらなんでもセンスと31文字だけで惚れていては、私たちは常に学校の担任や上司に惚れていなければならない道理です。
感受性といえば分かりやすいですが、たった1文字について日本人は多くの概念や意味を込めることができます。四季が豊かな国ですから、自然を描写する日本語も多いという土壌も手伝ったのでしょう。
雨をあらわす言葉がたくさんあるように、一つの文字にも多くの意味を持たせています。「道」という文字もその一つです。
辞書で言えば、人が往来する通路というただそれだけなのですが、茶道、華道、書道、そして空手道のように「道」ということばにはたくさんの意味と思いが込められています。それはひとえに、日本人の教養によるものが多いのではないでしょうか。
教養
教養のある人ない人なんていう言葉は、ともすれば学歴で語られることも少なくありません。しかし、それは教養をすなわち知識として捉えている狭い見方です。
教養とは知識ではなく、経験や学問を通して身に付けた知識、それによってしか培うことができない心の豊かさです。
国語の問題で、「作者の気持ちとして正しいものを選びなさい」なんていう問題は、誰もが学生時代に解いたことがあるでしょう。正解した人も多いはずです。知識としては、それで身についている。
けれど、例えばSNSで「この人はなんでこんなに失礼なことを億面もなく書けるんだろう」なんてことは日常茶飯事です。知識としては知っていて、答えることはできても、生活の中で人の気持ちを考える心のゆとりのある人は残念ながらそう多くはありません。
人間の地盤ともいえる教養が、ある人とない人では、同じ物事についてだとしても考える深さがおのずと異なってきます。
そういう意味で、昔の人はたった31文字に詠み手のひととなりや魅力を見出せるだけの教養、心のゆとりがあったのではないでしょうか。
道のある場所
なぜ道場には神棚を祀り、礼節を重んじるのか。所作が決まっているのか。それらは、武「道」そのものに深くかかわってきます。
それをないがしろやおろそかにすると、武道、空手道ではなく、つまり単なる人を制圧するための技術、格闘技になってしまいます。格闘技であれば、もっと過激であったり武器をつかったりのものあるので、何も空手に固執することもないでしょう。早い話が、アメリカにでも移住して銃火器を所持したほうが強くなるという意味では効率的です。
国外に出て、外国の文化に触れることはできますが、学ぶことはできません。外国の文化を学びたければ、まず自国の歴史や文化を知ること。その上で、国外の文化に触れることで初めて、自国について国外の文化を学べるのではないでしょうか。
新渡戸稲造の著した『武士道』は、外国人から投げられたひとつの質問をきっかけに生まれました。
「あなたの国には宗教教育がないというのですか?では、宗教教育なくしてどうやって道徳を授けるのですか?」
この疑問に答えられなかった新渡戸は考え、そこで日本の道徳観を育てたのが「武士道」であったことに気づきます。
いまではある意味での「東洋の神秘」を求めて、外国人の方が空手修行においてもいろんなことを積極的に吸収しています。対して空手の本場である日本では、そのようなものを二の次に置き、試し合いでの結果を最優先にして肝心な精神、心の修行には無頓着であったりします。このままでは、いろんな意味で私たちの「空手」は、外国に遅れをとるかもしれません。
武道教育、それを実現するにはまず指導者である立場の人が考える必要があります。何も考えずに、顧みらずに人を教えられる人はいません。
少しずつでもいい。一歩一歩踏みしめながら、自分なりの歩幅で一生をかけて歩いて行く。その覚悟ができたとき、歩いてきた軌跡は道となり、これから先はてしない境地へ向けて歩くべき道が拓ける。そして道場は、ひとりひとりの道がある場。そんな場所になるよう目指していきたいですね。
何かいいブログのタイトル、ありませんかね?(^_^;)
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