「なんでだろう…。風早くんの顔を見ていると胸が痛い」
なんと淡い恋心でしょうか。もう二度とは戻ってこない青春時代を思うと、頬を熱い何かが伝って落ちます。しかし、そこでふと疑問に思って聞きました。菜穂子先生をじっと見つめると、目が合います。
「胸、痛いですか?」
「胸やけがする」
なんという無慈悲な先制攻撃。
言うに事欠いて、胸やけとは。そのまま放っておけば嘔吐するとでも言うのでしょうか。私は悲しくなりました。嘆いているところを「顔を見ると、あなたはどうなの?」と聞かれたので、
「胸よりも頭が痛い」
と思わず本音チックなものが漏れ、一時の米ソ、米朝を思わせるような、アニメとは正反対の空気が流れることになりました。
「空手に先手なし」という言葉は、昔から受け継がれている空手の理念です。後手に回って技を返せといった、小さな教えではありません。空手の型は、すべて受けから始まると言われます。ところが修行を重ね、解釈が進んでいくと、受けと攻撃が一体となった交差法から始まる型もあり、「自分から攻撃しかけていく型はない」というのが正確な気がします。
武道や武術の「武」という文字について。Tシャツやセットアップなど、道場の象徴たる文字として私たちは背負っています。今回、セットアップのデザイン制作の際に文字を見続け、ゲシュタルト崩壊を起こしそうになりました。普段背負っているこの文字には、どのような意味合いがあるのでしょうか。
その成り立ちには諸説あります。「戈」(ほこ)と「止」とを組み合わせた会意であることは共通していますが、その解釈を巡っては「止」というのは「あしあと」の形で、人が戈を持って行進する、いさましいさまとしての捉え方が有力なようです。詳細な検討に踏み入ると甲骨文字だの、漢語だのの世界に踏み込まざるを得ないのでここでは避けます。
一方で春秋左氏伝によれば、「戈を止める」という解釈がなされます。これは平和主義者である孔子とその弟子たちによる編纂のため、武を大きく飛翔させた解釈である可能性が大きいようです。
言語学においては、言語というものは生物のように捉えられます。時代と共に変わりゆその様を観察しているのです。なので、個人が納得さえするならばどんな解釈も自由でしょう。私たちが頼る国語辞書でさえも、編纂されるたびに言葉の意味は変化しているのですから。どちらが正しいのか、というよりもどちらを自分の信念として採用するか、その問題なのです。
話をもとに戻しましょう。空手に先手なしという言葉は、自らが先に拳をふるって争いを生んだのでは、空手は単なる暴力とそれに用いられる凶器に成り下がってしまうということを強く戒めた言葉です。
元の意味、語源がどうであれ、日本という風土の中で「武」という文字に携わる私たちは、その意味を今一度、学ぶ必要があるのかもしれません。何の道を歩いているのか。それを考えることは、避けて通れないように思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿