2019年8月6日火曜日

夏の思い出とこれから

 まだ世の中のこともよくわかっていない小・中学生のころ。夏という季節の、そのほとんどが夏休みだったわけで、夏の思い出はすなわち夏休みの思い出だということに気づきました。



 人並に親戚と旅行に連れて行ってもらった思い出はあるのですが、夏休みといえば…。そう。夏季講習です。
 中学受験と高校受験では、大きく違う点があります。高校受験、特に公立高校ではそうなのですが、中学の教科書をガチって葦編三絶していれば合格も十分可能です。
 ですが、中学受験に関しては。いくら小学校の教科書を目からビームが出そうな勢いで眺めていても、専用の対策をしていなければ合格できる可能性は限りなく低いのです。


 そこで進学塾では夏という、学生が休みで堕落していく長期間に「夏季講習」という特別カリキュラムを実施して、徹底した基礎固めもしくは演習をびしばし行います。そして週ごとに「週例テスト」、総まとめに「夏季総合テスト」を、まるでリオのカーニバルのような怒涛の連続で開催して、継続的に勉学的気合を注入し続けます。


 いまでこそ運動会では手をつないで一斉ゴールだとか都市伝説みたいなことがささやかれていますが、どうあがいても社会は競争。獲得得点ごとに名前と科目の点数が列記され、なおかつ順番に並び替えられています。
 そして総合得点が平均に満たない生徒は、名前がくりぬかれる。プライバシーの配慮なのか、「載せる価値のない者ども」みたいな扱いなのか判断に迷うような成績発表をもって、熱い夏のフィナーレを迎えていました。


 ところで話は変わりますが、「お嬢様の定義」について面白い記述がありました。『不平等社会日本』(中公新書:佐藤俊樹)で触れられているのですが、お嬢様とは「都内のとある有名私立大学付属病院で生まれた子」という定義の例があるそうです。病気はともかく分娩(お産)は、自費診療なので個室料金やいろいろは基本病院設定です。だから金額の高い某病院で生まれた子は…ということなのだと思います。

 つまり本人の努力だとか資質とかは関係なく、生まれた瞬間にお嬢様はお嬢様で、あとからどれだけ取り繕ってもお嬢様にはなれない。生まれた瞬間には、そのあとの努力で移動できない階層が存在していて、地方に生まれたらそれだけでお嬢様にはなれないということらしいです。これは機会の不平等と社会階層というテーマを扱った本ですので、お嬢様の定義の是非はとりあえずおいておきましょう。


 それに比べると、努力でなんとかなるものってまだ平等だと思います。勉強もそうですし、スポーツもそうです。
 先の夏季講習いえば、月~金で、朝から夕方まで開講されていました。その中で、例えば月曜日だけいって、あとは欠席。月曜日だけはマジに頑張る。そのような夏休みを過ごしたとして、週明けのテストでいい成績がとれるかというと、当然のように平均点に届かず、氏名がくりぬかれて貼りだされます。

 では、毎日出席してるといい成績がとれるでしょうか?

 因果なもので、努力って平気で裏切るんですよね。考えてみると当たり前で、努力が必ず結果として返ってくるのがわかってれば、誰だって努力するしできるでしょう。そうじゃないから難しいし、努力が大切だと大人は口を揃えて言うわけです。
 勉強だって、みかん箱と教科書だけで頑張る人から有名塾の寮にぶっこまれる人まで、環境も平等じゃありません。


 努力は実らないことも多くて平気で裏切る。不平等なんてどこにでもあるし、偏見や差別だって多い。そして誰も他人の人生に責任なんてとってはくれない。

 それをわかった上で、

じゃあどうするか?

 っていうのが人生です。

 その「人生を生き抜くための力を、空手を通して育みたい」というのが門馬道場の言う武道教育。


 でもですね、そんな力。入門しただけで身に付くっていうならだれも苦労しないし悩みもしません。国Ⅰという超難関試験を突破したエリート集団の文部科学省ですら、「生きる力を育てる」とかイキって失敗したわけですから(ゆとり教育)。

 いま県北地区では週1回コースと2回以上コースが選択できます。でも週1回というのは、それで完成できる、完成を目指すというわけではなく、あくまで週2回以上へ移行して修行するためのステップアップのための選択肢の一つなのです。


 そこを促していくのが指導者の役目であり、一歩踏み出せない門下生の背中を押せる夏にしたいと思います。甲子園に負けてられるか!





国際空手道連盟 極真会館
(社)世界総極真
NPO法人 極真カラテ 門馬道場
師 範  門馬智幸
指導員  山名愼一郎





0 件のコメント:

コメントを投稿