「好きなだけ勉強できる環境」が贅沢なものだということを知ったのは、社会に出てからのことでした。本を読む時間も、勉強する時間も、自分の生活をやりくりしなければ捻出できません。
勉強している中でも、ときに集中力がプツンと途切れることがあって、こんな感じになってしまいます。
カードダスで売ってあったダイカットステッカー |
でも思ってみると、コナンと空手、とりわけ極真空手の縁は深いんです。女の子のが空手に興味をもつ大半のきっかけは、コナンの蘭ちゃんではないでしょうか。
私がコミックスで出会ったときは小学生でしたが、いつのまにか大きく年齢を抜いていて愕然としてしまいます。
閑話休題。
辞書的で引いてみる
一見、凶器と武器は人を殺傷する同じもののように思えます。しかし、辞書を引いてみると…【凶器】人を殺傷するために用いられる道具。また、人を殺傷したときに用いられた道具。
【武器】戦いに用いる種々の道具や器具。敵を攻撃したり、自分を守ったりするための兵器や武具。
両者の違いは、目的にありそうです。戦うためのものなのか、人を殺傷するためのものなのか。
そこで出てくる疑問。
戦うってなんだろう?
武器と凶器の違い
「これであいつに一発食らわしてやろう」と思えば、フライパンでも広辞苑でも凶器になります。言うまでもなくフライパンは料理をするための調理具、広辞苑は知識を得るための書物です。ですが、フライパンなり広辞苑なりで頭部を殴打し続ければ、人はやがて死に至ります。殺傷する目的で使用されたのなら、調理具だろうが書物だろうが凶器になるということです。対して武器は、戦いに用いるためのもので、戦うためにしか存在していません。凶器は人の殺傷とは別に本来の用途があるのに対し、武器は戦うことしかできないのです。
結果として表に出るのは、凶器も武器も同じ、「人の殺傷」。けれど、決定的な違いがあります。
凶器の目的が人の殺傷ならば、武器の目的は戦うこと。そして戦うとは、「何かを護る」という目的があるということ。
お父さんたちが日々、社会で戦っているのは家族を守るため。お母さんが家庭で戦っているのは、日常に潜む危険から幼い子どもを守るため。
武器は確かに大きな殺傷能力をもっています。でもそれは人を殺傷することが目的ではありません。凶器は自分以外を傷付けるためだけに存在するのに対し、武器は、その後ろにある大切なものを護るために存在しているのです。
空手は武器なのか、凶器なのか。
では、私たちの空手は武器でしょうか、凶器でしょうか?門下生の多くはこの問いに「武器」と答えました。その答えを聞いて嬉しかったのですが、答えは違います。空手は、武器にも凶器にもどちらにでもなり得るのです。
人を殺傷するだけの目的で使用すれば凶器ですし、何か自分以外の大切なものを護るときに使えば武器になります。
つまり武器であってほしいけれども、使う人の心によって簡単に凶器に成り下がってしまうということです。そしてこれは空手に限らず、柔道、剣道をはじめとるするあらゆる武道にも同じことが言えます。
なぜ攻防のことだけでなく、礼法を学び、道場訓を重んじるのか。それは空手を、いや修行するあらゆる武道を、心の鍛錬によって凶器に成り下がらせないためなのです。
幼いころは「なんで、心の修行なんて必要なの?」と思っていたのですが、それはほかならぬ自分自身、そして先人たちが継いできた空手そのもののためだったのです。
武道において、その技術や使い方だけを教えるのは片手落ちです。なぜ武道で茶髪がだめなのか?なんていうのはネットでも見かける他愛もない話題ですが、その本質は使う人の心の在り方を問うための、たった一つの側面でしかありません。
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