キェルケゴール曰く、死に至る病とは絶望のことだ。そして一番身近な絶望は、夢の喪失によってもたらされると思う。
夢っていつだって突飛で、今の自分から想像できないようなものだ。だからそれをつかもうとするならば、そもそも雲をつかむような話なので、多大な努力を求められる。それは苦痛だけれども、追いかけずにはいられない。なぜならば、何物にも替えがきかない「夢」だから。
ある程度の努力でなんとかなるかもしれないものは目標、希望といったりする。現実的に到達が可能な範囲に存在する。でも夢ははるか圏外にあることが普通で、だからこそ私たちは夢物語だとか、夢見てんなということばを使ったりもする。
だからそんなところにある夢を掴もうとすれば、こっちもあたまのネジを飛ばして追いかける必要があるし、それでも掴めないことの方が圧倒的に多い。そしてやっかいなことに、簡単に諦められれば幸せなのだけど、まったく諦められないからタチが悪い。
そりゃそうだ。頭のねじが落ちてるような人はたくさんいる。そんな中、自分からねじ飛ばしてでも追っかけたくなるくらい心奪われてるんだから。
夢を諦めないで挑戦し続ける、なんて簡単なことで。諦めなきゃいけないことの方がよほどつらい。
だから、夢を見つけるのも、追うのも資格が必要だ。
思えば小学校のころから、「夢をもつことはいいことだ」と教えられてきた。けれども、夢を見つけ、それを追いかけ、そして叶わずに膝が地面についてしまったとき。絶望に襲われた際の身の振り方なんて、誰も教えてはくれなかった。
言っている当の本人は「先生」で、やりがいや能力などは十分にもっていたとしても「夢をつかんだ、あるいは追いかけた」という人からは程遠い。だから、経験がないのかもしれないし、教えることができないのも当然かもしれない。
そのような人たちが声高に叫ぶ「夢を持て」という生き方。それは果たして正しいことなのだろうか?
大人になるというのは夢をあきらめること。それは正しいのかもしれないけれど、冗談じゃないとも思う。大人になるってだけで夢へのあきらめがつくのなら、なんて心地よい人生だろう。
夢を持つのも、追いかけるにも必要なことがある。それは、「強さ」。
夢の喪失、その絶望に負けない心の強さ。
夢の喪失による後遺症は、思いのほか大きい。でもそれは経験したからこそ、言えることでもある。
だから子どもたちには、空手を通して心の強さを養ってほしいと切に思う。いつか見つける夢を追いかけるため。掴むため。そして、万一それが叶わず失ったとき。
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