2020年11月29日日曜日

常識?非常識?

  今日は郡山地区の昇級審査会です。審査のとりまとめに菜穂子先生が行く予定だったので、私は子供のお守りの予定でした。


がなんと、「ばあちゃんちに行く」と言い出したため、急きょフラれて一人きりに。

 なかなかない機会だと文具店や書店をぶらついてきました。どこも品切れで手に入らなかった「鬼滅の刃22巻」も見つけて購入。




 今回の演武でもあやかった鬼滅の人気ですが、そのヒットの裏には「非常識な戦略」が大きく働いていたことは有名です。非常識と常識の境界線ってどこにあるんだろうなとふと疑問に思いました。


 社会の中で「常識」はとても大事です。あたりまえの共通の認識なので、仕事をするにあたって常識のある人のほうがやりやすいのは当然です。それは協調性などにも及んでくるから。でも常識って具体的には?と聞かれると答えに窮してしまいます。


 ただ一つだけ確実に言えるのは、常識的なだけでは絶対に変化を起こせないということ。当たり前です。なぜなら常識の範囲内に必ず収まるということなので、自分が常識を持ち合わせていればすべて予測ができてしまうし、いい意味でも悪い意味でもその予測が裏切られることはありません。

 そして常識というレッテルがしっかり貼られた、常識を持ち合わせた人なら誰でも出せる程度の価値のものが出てきます。はっきり言って、こんなにつまらないことはありません。


 漫画業界ではこれまで、ある程度のコミックスの人気を担保としてアニメ化されてきました。それもそのはず。アニメ化というのは、作るのに大勢のスタッフが関わるだけでなく、電波を使って放送するのですから莫大なコストがかかってしまうのです。

 ところが鬼滅の刃では、このアニメをバズらせるツールとして設定し、用いました。人気があったからアニメ化されたのではなく、アニメ化によって異例のヒットを生み出したのです。けれどここからはマーケティングの話になってくるので、あまり踏み込まないことにしましょう。


 言ってしまえば、常識に従った手法では、ここまで人気が出ていなかった可能性の方が高い作品。このマーケティングを思いついた人は、常識をあえて無視したビジョンを持っていたのだと思います。


 空手道場だって同じです。常識的なものの考え方を学びたいのであれば、何も痛くて苦しい思いをする極真空手でなくてもいい。他にたくさん手段は腐るほどあります。

 言ってしまえば瓦を割ったり、バットを折ることだって非常識です。でもなぜそこに憧れるのかというと、常識を超えたところの「強さ」を見いだせるから。

 上級の連続組手だってそう。審査といいながら受審者は、不公平極まりないハンデを背負って組手を行います。どう考えても常識からは外れていますね。

 常識だけで行動するならば、上級の審査や昇段審査なんて受けることはないでしょう。それでも挑むのは、「常識」なんて小さすぎる器で切り捨てちゃもったいない世界が、その先にあるのを知っているから。常識を振りほどいて走った先の境地にたどり着きたいから。


 いわば常識を学びたければ、保育園や幼稚園、学校で十分です。大勢の人がいる中で生活していれば、ほとんどの常識は勝手に身に付くもので、逆にそうでないものは「常識」とは言えません。

 その常識の中では万人が思いつく方法で、できるだけ安全を確保し、困難なことは避けて無難に成功させることができるようになります。常識という柵・檻の中では十分な視野かもしれません。

 でも一歩飛び越えた世界を知っていると、家畜のように安寧で過ごす日々なんてもったいない。けれど飛び出せる何かをもっている人なんて、世の中では一部でしかありません。その意味で、武道は自分と向き合うことでいろんな可能性を見つけ、それを伸ばす手助けをしてくれます。

 子供が見ず知らずの人と本気で突き合い、蹴り合う。勝敗は別としても、親である人たちに同じ状況で同じことをできる人がどれだけいるでしょうか。開始線に立つ子供たちが味わう恐怖は、同じことをした人間にしかわかりません。


 はっきり言うと、私達が理念としている武道教育は、心技体を育んで生きる力を与えること。だからお父さん、お母さんのようになれ、なんて教育は一切しません。目指すのは、老いた親を背負って生きていけるくらい強くなること。だから親を超えるための鍛錬を積んでいるといっても過言ではありません。


 だいたいにおいて、「非常識だな」と切り捨てているなかには、自分と到底違う視点からものごとを観ている人に追いつけなかったりしている事実があります。非常識というのは常識がない、のではなく、自分の常識の器では測れないものに貼るレッテルでしかない。

 コロナ禍のこのような事態だからこそ、それが常識的であれ非常識と言われるものであれ、確たる自分を持っていなければ淘汰されるのは必然。それは換言すれば道場の真価が問われているということでもあります。

 常識は必要だけれど、常に常識の範囲内に収まる人間に変化は起こせない。

 何を与えたくて、どんな人間になってほしくて極真空手の、門馬道場の門を叩いたのか。常にそのことを忘れずに日々を生きたいものですね。


 ちなみに礼節を失した失礼な人と、常識に捉われるに非らずの非常識な人は似て非なるものなので念のため。



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