「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と問うた。
ベルギーの法学大家ド・ラヴレー氏の質問に新渡戸は即答できなかった。なぜなら、道徳を授けてくれたのは学校ではなかったからだ。こうして世界的名著である「武士道」が生まれた。
教育現場である学校、そこには生徒個々の環境や個性、正確や考え方などの事情は一切関係ない。いちいち生徒に合わせていたらキリがない。
それで学校は成り立っても、道徳的な教育は成り立つだろうか?
新渡戸稲造が武士道を著した当時から、道徳は学校で授けるものではなかった。もっと正確に言えば、学校という限られた生活のごく一部よりも、封建制度が生み出した子である武士道が、道徳の道を照らしていたのである。
そして現代では、武士道は武道へと形を変えた。それはなんら手に触れうべき形態をとらないけれども、道徳的香りを漂わせ、我々をして今なおその力強い支配のもとにあるを自覚せしめるのは、新渡戸博士の指摘が通りである。
今の日本には、家庭教育、地域教育ではどうしても補い切れないものがある。だからこそ、それを補う教育が必要であり、それこそが「武道教育」である。
ブログでも「武道教育」というタグを付し、私見を交えながら書く機会が多い。でもそのどれもが、門馬師範との邂逅によってもたらされた「極真空手の新たな一面」であったことは書いておきたい。
師弟関係というのは不思議な縁で、恵まれれば筆舌に尽くせない関係ができあがる。その反面、恵まれなければ、解散命令まで出された某宗教団体のような末路を辿ることになる。師弟とはよく使われる言葉だが、その重さも尊さも経験したものにしかわからない。
師範へのメッセージを書いていて、自然と出てきた言葉があった。何の本だったか、と本書を読んで調べてみて思い出したが、とある少年漫画にでてきた一節だった。少年漫画誌を卒業して久しいのでだいぶ前のことになるが、それでも覚えていたのは印象に残ったからだ。
紡ぐ言葉というのは、それがその人から生み出されたものであれ、受け継いだものであれ、その人自身を表す。本書の中には、師範の話しを少なからず聞いた人ならば、よく耳にする言葉が出てきている。けれど、その言葉のルーツ、つまり誰がどんな思いで伝えたことばなのか。あるいは、どのような苦悩から師範が辿りついた答えなのかを知ることで、より一層その重みを増す。
本来、私のモットーは「沈思黙考」。にも関わらず、このような機会でつらつらと自分の考えや思いを書いて伝えようとするのは、門馬師範の「指導員はブログでもなんでも自分の考えを伝えなきゃだめだ」という言葉による。
その思いの根源は、師範自身の苦い経験からだ。曰く
人は空手を学ぶ時、その指導者の人間性や空手に対する「情熱」、そして指導者としての空手に対する「信念」に付いていくのではないだろうか。
情熱や信念といったものは、指導員が持つに至るには特に何かが必要なわけではない。むしろ、それらがないまま10年やそれ以上、続けることのほうが難しい。それを言葉に落とし込んで伝えることができるか、あるいは自身の所作でそれを体現できるかという問題の方が肝要なのである。
教育というものが財産である、という考え方は、私は両親から教わった。事実、両親はお金という形のある財産ではなく、教育という目に見えることない。けれども決して奪われたり、失うことのない財産を与えてくれた。
幼い頃に袖を通した道着は何も変わっていない。いまも袖を通し、帯を正しく、私自身を支えてくれる存在となっている。
そして門馬師範は、武道は教育であるということを教えてくれた。そして私の中で、武道は教育という立派な財産であるという考えが確立した。
武道教育及び、武道がもたらして育んでくれるものの詳細は本書に譲る。
特に入門している一般部、子どもを入門させている保護者、そして武道というものに興味のある人に本書を強く推したい。そこには突く・蹴るの技術論を大きく超えた、試合の勝ち負けを超越した、新たな空手の観方とその価値を与えてくれると信ずる。
さて、ここで今一度、問題の本質たる冒頭に戻ろう。今はおろか、少なくとも新渡戸博士が生きた時代から、既に学校では「道徳を授ける」という役割を失っており、武士道がそれを担っていた。それはある種、運命づけられた特質だったと言える。
もともと帯刀を許されていた武士は、常に力を持たない人への殺生与奪の権を握っていた。ためにその力の使い方や所作には、より一層の精神の高潔さを求められたのだ。
いまでは武士道を引き継いでいるのは武道であり、その武道の中でも、師について師事し、ものを修めた人に限られる。本書でも指摘されているが、中には数日の講習を受けただけで黒帯がとれたり、守破離も踏まないで、初段や二段程度で団体を立ち上げトップに収まる師範などがいらっしゃるのが現実だ。
願わくば武道に興味を持って、どこかの門に入る人々のすべてが、良い師弟関係に恵まれて欲しい。でなければ、武道の奥深さも、その本当の価値にも気づくことが出来ないのだから。その意味で、私は僥倖であったと言える。
思うに、こんなことを書いたら方々からお叱りを受けるかもしれないが、過程のどこかで空手を離れることも必要なのかもしれない。
師範は会社を立ち上げたとき、私は大学の4年間、空手に空白の期間がある。ただ、共通点があることに気付く。単なる空白期間ではなく、その間、全く違う世界で熱中できるものに出会っていたこと。そしてその空白期間は、振り返ってもなんら否定するものではなく、いまなお肯定できること。そして、離れた期間を経てもなお、空手が人生に必要不可欠だと確信して戻ったこと。
一度離れ、それでもなお自分の意志で選びとったものならば、迷わず大事だと言えるだろう。
とはいえ、一度離れて、そのまま自然韜晦という人が圧倒的多数なのではあるが…。
余談になるが、個人的に面白かったエピソードを本書からご紹介したい。
門馬師範が仕事から空手に復帰して、一回目の稽古。後輩と組手をするのが久しぶりで、舐められまいとガチンコで組手を行った。その翌週の稽古日。大雪だからか、稽古時間になっても誰も来ない。しかし、一時間を過ぎたあたりで、最初の稽古でやりすぎたことに気付く。仕方ない、帰ろう・・・。そう思ったときに、やっと一人の生徒が来た。
「すいません。遅くなりました。残業だったもので」
この言葉を聞いた時には、その生徒を抱きしめてやりたいほど、嬉しかったという。
極真空手の創始者、大山倍達の活躍を描いた漫画「空手バカ一代」にも似たエピソードがある。大山総裁と真樹先生の出会いのきっかけとして描かれていたが、大雪で誰もこないだろうと道場を閉めようとしたとき、大雪の中を苦労して真樹先生(当時白帯)が現れた。作中の大山総裁もよほど嬉しかったのか「今日は特別に私が稽古をつけよう」と指導した。身に余る光栄と共に地獄だったことだろう。
きっとその日の稽古も、門馬師範は稽古に熱が入ったに違いない(笑)
そんなエピソードも満載の本書、道場でも販売いたします。
個人的に思うのですが、本ほどコスパのいい投資はないと思うし、その投資先は絶対に裏切らない自分自身です。子供を成長させたくて入門させた保護者さんにも、是非とも読んでいただきたい一冊です。
ぜひお気軽にお問合せください!
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