ある火曜日の夜のこと。郡山のコンビニにて。降りるために荷物をまとめていると、統河先生が運転席を降りて、助手席を開けてくれた。
「師範じゃないんだから、そこまでしなくていいよ」
なんだか文字に書くと師範への皮肉のように聞こえてしまうけれど、決してそんな意味じゃない。
段位が五段から「師範」と呼ばれる地位になる。統河先生とは先輩後輩の間柄ではあるけれど、「師範」と呼ばれる人との関係性とはまた異なる。
もちろん、先輩後輩の関係性は必要だけれども、それ以上に一緒に修行中の身であるし、何より門馬道場を盛り上げようと取り組んでいる仲間でもある。
師範であればもちろん真っ先に降りて、ドアを開けるのだけれども、「それと同じように私にもしろ!」と思えるほど尊大にもなれないのだ。
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私が公共交通機関のみで郡山や福島市やそれら道場を行き来していることは多くの皆さんがご存じだと思う。ときに重い荷物や思い通りにいかない時間の噛み合わせから「交通弱者」などと自虐的に言ったりもする。
その反面、車を持たないメリットもたくさんある。電車の中では問題集解いたり、本を読んだり、オンデマンド放送を観る時間がゆっくりとれる。
そんななか、統河先生と帰る車の中での雑談も、私にとっては貴重だったりする。
普段のブログでは偉そうに講釈垂れているところが大きいけれど、実は教えている(伝えている)形でありながら、自分が学ばせてもらうところも大きい。
考えてみれば当たり前というか、私は完全に教えだけを教授できるような立場にない。自身が若輩であるし、空手も修行中の身。
教えるということは、教えてあげているのではなく、自分の学びの一環として教えているに過ぎない。門馬師範が門下生を教えるのとは、また違った位置づけであったり、違う意味を持っている。
何気ない雑談の中で、ふと思うところがあった。
映画でも漫画でもそうだけれども、「展開が見えている」ことほどつまらないものはない。思いがけない起承転結の「転」があるからこそ、人はその先の流れに惹きつけられる。
自分の道をみてみる。ずっと平坦な道がひたすら続いている。
果たしてこれでいいんだろうか?
山月記にもある。人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。
何かをなすつもりならば、賽を振るときが来ているんじゃないだろうか。
そしてなそうとすることが大きければ大きいほど、リスクをとらなきゃならないし、犠牲にするものも大きくなる。
そんなリスクを避けて平坦な道を選ぶような性分だったっけかな?
門下生に言う。「できるか、できないか ではなく、やるか、やらないか」。
空手が人生を力強く生き抜く術で、それを育むのが武道教育だというのなら、また同じ問いを自分にも投げかけなきゃいけない。
高校生の時に聴いて、とても好きになった歌がある。今の年齢になって聞くと、まったく違った聞こえかたでもっと好きになった。
今の生き方は正解ではあっても、生きたかった人生なのか、正しい選択なのか。正直、わからない。
結局のところ、重要な選択の連続。それが人生なのだ。何が正解なのかわからない。常に学びながら、次々に訪れる重大な選択に対し、後悔しない答えを出し続けていくことしかできない。
だからこそ、いまの自分を迷いなく肯定できるような選択や生き方をしていこう。そう改めて思った。
賽を振る時は訪れ 人生の岐路に佇む
不条理や不安に身を任せて賽を振る勇気も、人生には必要なのかもしれないですね。
『pure soul』GLAY
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