前回のセミナーの記事で紹介したこの写真、初めて宿泊で参加した門下生たちの紹介でした。初めて宿泊での全日程参加は勇気が要ったと思いますが、その頑張る姿勢はその後にも続いてきました。
今回、この中から白・オレンジ帯の齋藤應恭くん、今野駿晴くん、清野伊織くんが白蓮の大会、遠征大会に挑戦することになりました!
遠征大会は、佐倉道場、霞町道場の先輩達がずっと挑戦してきています。そんな後に続く門下生が出てきてくれたことを、本当に嬉しく思います。
遠征大会は、門馬道場主催の大会(地区大会、チャレンジカップ、県大会)に出場した門下生が挑戦することができます。
現在、コロナ禍の影響から少年部は週2回までの制限がかかっていますが、大会にエントリーした門下生はその制限が外れ、何回でも稽古することができます。思いっきり稽古して、挑戦してもらいたいと思います。
こういった門下生の姿勢の変化、挑戦する姿を目の当たりにする度に「指導員をやっててよかった」と思わずにはいられません。
門馬師範の姿をみて、話を聞いて、そして道場の方達と交流する中で「いろんな物事の先」を最近考えるようになりました。
■■■
みなさんは「人生の負け組」っていうことについて考えたことはありますか?
私は大学が経済学専攻、奇々怪々とした数式に翻弄されながらの大学生活でした。「経済」とは、経国済民という言葉の略語で、国を治め、民を救うというなんだか上から目線の言葉です。
誤解を恐れずにかみ砕いていうならば、「負け組の人を救う」ことも経済の役割の一つ。そこで問題になるのが「負け組の人ってどういう人?」ということになります。
負け組の人を考える前に、対照にある「勝ち組」というのはどういう人なのかを考えてみましょう。
とある本で目にしたのですが、いわゆるお嬢様、エリートというのは「慶応大学病院で生まれたこと」が条件の一つであるということ。
その是非はさておき、なるほどなと納得させられました。つまり、どれだけ収入で一山あてようが、稼ぐようになろうが、勝ち組になれるかどうかは出生した時点で決まっているということです。血も涙もないですが、みなさんも何となく感じることはありませんか?
木村拓哉さんの娘は華々しく芸能界にデビューして活躍し、最近は貴乃花親方の娘さんが芸能界デビューと同時にレギュラー番組を掴み話題になる一方、国のトップである岸田総理はご子息を総理秘書官に起用しました。
社会学では階層相続と言われるもので、受け継がれるのは、単にお金や土地・建物だけではありません。お金から生まれる充実した教育や環境、人的基盤(人脈)、親の経験、それからくる思想などをも含んだ社会階層が受け継がれます。
で、階層なんていう言葉でオブラートに包んでいますが、つまりはこの階層の上下が勝ち組・負け組を分けているのだと捉えるのが、これまでの一つの見方です。
個人的な意見ですが、人を収入額や地位といった「誰がみても明白にわかるようなありふれた物差し」でしか判断できないような人の方が、既に敗北なんじゃないかなっては思ってしまいますが(^^;)
■■■
「人はみんな平等で人生に勝ち組・負け組なんてない!」
そんな理想論も一つの捉え方には違いありません。
けれども、私たち親が本心で切に願うのは、
「子供に少しでも充実した幸せな人生を送ってもらいたい」
その一点ではないでしょうか。少なくとも私はそうです。そのときに、先のような理想論は、幼いころには道徳的面も踏まえて教えなければなりません。しかし、ある程度の年齢に達した子供に説いても、どこか後ろめたい気持ちを否定できないと思いませんか?なぜなら自分自身が厳然たる勝ち組・負け組の存在を経験で知っているから。
ただ救いなのが、私の中では「勝ち組・負け組」っていうその定義は、出生時点で決まっていて、どうにもこうにも動かしようのない、運命のようなものではないということです。
いいんじゃないですかね。
残酷なようですが、人生には勝ち組・負け組は確かに存在します。
それだけで済めばまだ幸せで、実際には学歴や偏差値で差別されるし、出世も不平等だし、努力も平気で裏切る。これは誰が何と言おうと動かせない社会の事実。まずは、そんな世の中に生きているんだということを自覚すること。
その上で、
「じゃあどうやってこの世を生きていこうか」
と、自分の生き方、人生の歩み方を決められる人が、人生の勝ち組だと私は思ってます。
結果的にその気構え、視野の広さ、心の余裕、主体性の有無が、所得や社会的地位に繋がっていることはあるかもしれません。でも収入や地位だけでしか人を判断できないのであれば、あまりにも貧しすぎる。
世の中の不条理を嘆いて終わるか、そこから活路を見出し、一歩を踏み出す勇気があり、切り拓いていけるか。そこに勝ち組と負け組の線引きがあるように思います。
逆に、そんな冷酷な現実を教えずに「みんな平等だし、頑張ればかならず報われるよ」なんていう甘い言葉を刷り込んで社会に送り出すのは、猛獣がいることを教えないまま目隠しでサバンナに放り込むようなもの。そっちの方がよっぽど残酷だとすら思います。
■■■
ここで道場のことに話を戻したいと思います。
もし、門馬師範が極真空手を単なる格闘技だと定義していたならば、おそらく門馬道場は、今はもう存在していないかもしれないほど、零細な道場だったに違いありません。
格闘技はブームに左右され、トレンドが存在します。私はK-1が隆盛を極めた世代ですが、いまはRIZINに代表されるようなMMAが主流。空手としてのニーズはそこまで大きくはないのが現状です。ただでさえおけいこ事市場の中でパイを取り合い、その中の一部が空手です。さらに福島県内、極真系の空手の団体だけでも多数あります。
ではなぜここまで門馬道場が、門下生1000人に達しそうな勢いで大きくなっているのかというと、門馬師範が極真空手を「単なる格闘技」ではなく「教育の手段」として捉えたからです。
困難に自ら立ち向かうこと、逆境に屈しないこと、弱い自分から逃げないこと。大人は、そのどれもが人生を幸せに歩むためには必要だと分かっています。でもそれは、学校の勉強や生活では学べないこともまた痛いほどわかっています。
以前は「極真」というだけで入門希望者があとを絶たなかった。対していまは、極真とその他の空手の違いもわからないまま入門してくる門下生がほとんどです。それは武道のもつ教育的側面の価値が浸透しつつあるからではないかな、と個人的には思っています。
■■■
教育産業というと少子化を迎え、お先真っ暗な産業のように言われがちです。でも私はそうは思いません。
なぜなら、
「子供にはより良い人生を送ってもらいたい」
そう願う親の気持ちは、いつの時代も変わらないからです。
少子化だからこそ、子供たちへの教育はより重要になってくるでしょう。そしてその対象は決して若い世代に限定されず、学び直しや、生涯学習が拡大してくるはず。そこでは、今の私たち門馬道場での取り組みでしか担えない部分があると確信しています。
だからこそやっててよかったと思うし、やりがいも感じれます。
Z世代と呼ばれ、情報が溢れる時代。検索すればいろんな情報が溢れています。それは問題や困難を「回避」させてはくれますが、「解決」には導いてくれません。
人生は「問題や困難」に幾度となくぶつかります。それを乗り越えるには、まず正面から向き合い、知恵を絞り、諦めないこと。そして少しばかりの勇気が必要です。やっかいなことにそのコツは「体験知」といって、経験からしか身につきません。
今回、セミナーに続いて遠征にも初挑戦する慶恭くん、駿晴くん、伊織くん。
勝てるかどうかは勝負ごとなのでわかりません。優勝するかもしれないし、一回も勝てないかもしれない。でも、自分で決断して挑戦したこの経験は、たとえ一回戦で負けたとしてもおおきな学びの機会になることは間違いありません。
一回りも二回りも大きくなって、いまの先輩たちに続いてくれる姿を楽しみにしています。
0 件のコメント:
コメントを投稿