子供はいつになっても可愛いものであり、それと同時に危なっかしいものでもあるのでしょう。
私は結局、一人前と認められないまま親父はこの世を去ってしまいました。
となると、もう自分を一人前と認めるのは自分自身でしかないんですが、なにを基準に一人前と判断すればよいのでしょうか?
人によってその基準も価値観もさまざまでしょうが、私の中では決まっています。道場でも何回かお話ししたのですが、
「自分のために本気になれて半人前、他人のために本気になれて一人前」
そう胸に決めています。
閉塞感漂う昨今、無気力な人も少なくありません。そんな中、自分が熱中できるもの、夢中になれるものをみつけて取り組める人は、それだけで偉いと思います。が、一人前というにはあまりにも器が狭い。
究極、よりよい人生を送ろうと思えば、当たり前に自分のためには夢中になれるものだと思うのです。
友達、という言葉があります。英語など語学をやっていると言葉の成りたちと文字が持つ意味にも着目した方が効率がよかったりします。
たとえばdeという文字は、ネガティブ、マイナスのイメージです。デフレということばもそうですし、デザイン。
Design 、デザインとはサインから余計なものをマイナスするということで洗練される、という意味があります。
そこで友達という言葉をみてみるとFriend、結局はendで終わる関係に過ぎなかったりするものです。
仲間の場合、fellow。「fe(財産)を分け合うlag(仲間)」が語源とされています。元の意味は営利的な繋がりとはいえ、自分の利益にも直結する、友達よりもロバストな関係だといえるかもしれませんね。
閑話休題。
友達は一緒にいれば楽しいだけの存在ですが、仲間はというとそうでもありません。
目標や目的を共有している人なので、時にはぶつかることもあるし、その関係に悩むこともある。一緒にいて楽しい、というのは仲間との関係のなかにおいて、ほんの一つの側面に過ぎないのです。
ぶつかる、対立する。そんな場面もありますが、「辛い時に支える」というのも大事な関係です。
ときには自分のことを投げ出してでも、仲間の存在を支えることができるか。
11月3日の審査会の後、反省会にて門馬師範からお話がありました。「恩を返せというのではない。恩を回せ」
自分が先輩たちからそうしてもらってきたように、同じことを後輩たちに返していく。それは幅広い視野でみれば極真空手へ、門馬道場への恩返しということになりましょうか。
その話を聞きながら、自分の中のそれと比べずにはいられなかったのです。
恩を返すも、回すも。他人のために本気になれない人間にはどだい無理な話なのですから。
けれどまずは自分のために本気になれる人間であること。最も本気になりやすいのは自分のために、ということなので、それすら本気になれない人は、他人のために本気になることはできません。でもそこで終わっても仕方がない。
自分のために本気になれる人間になれれば、そこにとどまらず、やがて自分以外の他人、仲間のために本気になれる人間になれます。
他人のために本気になれる人になれれば、やがて自分を支えてくれる人たちもできてくるのであろうし、そういう環境や関係を築けてこそ一人前、ということなのだと。日々是勉強と研鑽ですね。
空手で門下生に授けたいのは、強い心と揺るがない信念、すなわち生きていく上での「自分の魂の軸」です。その中には礼儀作法やいろんなことも含んでいるものだと私は解釈しています。だからこそ、空手を教えられるって素晴らしいことだと思うのです。
学校ではまず教えてくれない。
人生の辛さ、厳しさ、残酷さ、理不尽さ。そしてそれを乗り越えていける術を教えてあげることができるから。
あなたは他人のために本気になれますか?
0 件のコメント:
コメントを投稿