というわけで、NCVふくしまアリーナの武道関係は「わかってる人、その道について造詣の深い方が作っててすごい」という話で、弓道の阿波研造先生について、前編で書き連ねました。
今回はそんな阿波先生が道の探求に入るきっかけの一つになった、嘉納治五郎先生について。実は空手とのつながりも深いのです。
嘉納先生について書こうと思ったきっかけは、NCVの柔道場に掲げられた一つのことばでした。
柔道、というと日本発祥の競技であることはみなさんご存じかと思いますが、その歴史はまだ150年足らずであることをご存じでしょうか?
理解を優先して、ものすごく乱暴に言えば。日本古来の武術である「柔術」から、危険な技や打撃を取り除いたもの。ということができるでしょうか。正確に言えば、修身法、練体法、勝負法としての観点から、より深く研究し、整理・体系化のために取捨選択されたものが、柔道、ということできます。
この柔道を提唱したのが日本柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎先生で、講道館を設立しました。至る道を講ずる場所。弓聖阿波先生が、道の追求をはじめたのも嘉納先生の理念がきっかけであったといいます。
意外と空手とのつながりも深く。沖縄から本土へ空手を広めた船越義珍先生(松濤館創始者)は、講道館に招かれて演武を披露するなどつながりもあったようです。このときには嘉納治五郎先生や講道館有段者たちの前で公相君(クーシャンクー・私たちでいう観空)、ナイファンチ(鉄騎)を披露したとのこと。
他いろいろエピソードは残っているのですが、史実というには確定的な資料がなかったりで未だ論争が続いていたりもします。
しかし両者に共通しているのが、修心あるいは精神修養という言葉を用いて、ともに武道を通じた精神修養を重視したのは、偶然の一致ではないでしょう。嘉納先生も、柔道家としての面もりながら東京高等師範学校校長を務めた教育者であり、船越義珍先生も長らく小学校教育を務めた教育者でした。そのような2人にとって、武道の究極の目的は、自分自身を磨いて社会に貢献することであったのでしょう。
閑話休題。
柔道といえば、精力善用、自他共栄。その言葉というイメージは門外漢の私にもありましたが、NCVの柔道場、神棚にも「精力善用」の文字が。弓道場に阿波先生の写真が飾ってあるNCVです。やはり重要な意味があるのでしょう。しかし、私にはわからない。
ということで、稽古終わりに菅野佑心くんのお父さんに電話して聞きました。菅野佑心くんのお父さんはご自身が選手として柔道を修行し四段を習得されておられ、ご実家が柔道の道場という生粋の柔道家です。
私は道場訓のようなもの、と認識していたのですが、どうやらその認識は間違っていたらしく、道場訓は道場訓で各々道場にあり、精力善用と自他共栄は嘉納先生が掲げられた理念であるということでした。
一番に掲げられる精力善用は柔道の理念にも通じるとのこと。それは門外漢の私には到底理解が及ぶところではないのですが、同じ武道。根底に流れる精神は同じものであると思います。己のための修行でありながら、究極の目的は社会貢献のため。培った力を善きことに用いる。
そして自他共栄。他を認めず、自らの言い分ばかりで争うならならば、自他共倒れとなって、社会全体の不利・害禍これより大なるはない。(講道館HPより引用)
精力を最善に活用するようになれば、換言するならば自他共栄のために活用することができるならば、実力は一層伸び、文化も著しく進み、富強も加わることになります。
思うに。それが投げであれ、締めであれ。そして突きであれ、蹴りであれ。形は違えど、目指すべくある理念というのは共通しているように思います。その意味において、門馬道場は師範が率先してその道を説き、示してくれるので恵まれた環境だな、と感謝しています。
こういうと、宗教的に思われるでしょうか。しかし見てほしい面があります。先日、昇段審査の動画を公開しました。
いまは各SNSで昇段審査はじめ、空手の動画もたくさんアップされています。しかしながら。どうみても痛めつけているだけにしか見えない連続組手、これみよがしにダメージを与えているだけの痛み稽古。
空手の稽古なのでそういった一面があることは否定しませんが、SNSにあげるべき動画なのでしょうか。
連続で10人も、20人も組手やらかせばそれはバテるに決まってます。動画を見てもらえればわかりますが、最後のほうになるにつれて「勝てるわけねーよ」って人が相手で出てきたりします。でもそこで、「ほらみろ」と言わんばかりに倒されている人がいたでしょうか。
角田樹唯くんが下段で技ありをとられたシーンは印象的ですが、何よりも。そのあともくらいついていけたことからもわかる通り、致命的なものにはならないようきめ細かに威力がコントロールされていることがわかります。
それは、この試練を乗り越えてほしいという相手の思い故。己が鍛えてきた技を、昇段に挑む人の前に立ちはだかり、そして乗り越えさせるために使っているのです。この試練を乗り越えた彼らは、やがて昇段に臨む後輩たちの前に立ち、そしてそれを乗り越えるための試練となりながら、その手助けをすることになるでしょう。決して、昇段を阻むためにつぶす、なんていうことにはならないのです。
精力善用の言葉こそ掲げていないものの、行きつくところはやはり、そこであり、そのための自他共栄であるのだなと動画を編集していてしみじみと思いました。本来ならば、こんな動画です、と例を挙げて見せたいくらいのひどい動画もたくさんあるのですが、そこは他団体さまの批判になってしまうのでいたしません。が、その違いは、私たちの道場の動画を見ていただいていれば、おのずと違いを感じ取れるようになるものだと思います。
どうか今後とも、門馬道場の理念にご理解の上、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
というわけで珍しく前・後編に分けてのブログでした。
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